港の丘「山手」

1859年(安政6年)の開港の後、1864年(元治元年)にイギリス領事が横浜村の人口を調査しました。開港前は半農半漁の寒村であった横浜村が、この調査によると日本人の人口は1万2000人に達し、居留外国人も1861年(文久元年)の段階でイギリス人54人、アメリカ人38人、オランダ人20人、フランス人14人までになっています。さらに、外国商館で働く中国人も多数来日し、この街は世界の人々が交流する場所になっていくことになります。

その後、外国人の人口増加に伴い市街地は拡大していくことになり、1867年(慶応3年)には港の丘・山手にも居留地として、多くの西洋館が建ち並ぶようになりました。幕末期の政情不安の折り駐屯していた英仏両国の軍隊も、1875年(明治8年)には撤退し、陣営跡地は領事館や宅地に分割されました。こうして山手居留地270区画の全容が固まったのは1877年(明治10年)のことです。

我が国最大にして最良の西洋館の街も、1923年(大正12年)の関東大震災で壊滅的な打撃を受け、現在見ることのできる西洋館は、昭和初期に建てられた震災復興西洋館です。
しかし、現在も緑が多く、建物と敷地の関係もゆったりとした空間があり、山手らしい豊かな国際性と、高い歴史的風趣を持ち合わせています。この優れた住環境と特異な景観を守っていくことが我々の使命です。

ブラフ(BLUFF)と呼ばれていた山手

BLUFFとは、絶壁になっている、切り立った、と言う意味です。山手はかつて居留地の外国人からブラフと呼ばれていました。切り立った崖の上の、山手本通りと谷戸坂(ワシン坂)通りの尾根に沿って展開していることと、宅地の造成や道路を作るのに石積みがどうしても必要でした。今でも坂道の途中や、敷地の境界、側溝や石垣に、その当時の石積みが遺っています。また、その石積みを「ブラフ積み」と称していました。

フランス山とトワンテ山

幕末から明治8年まで、イギリスとフランスの軍隊が駐屯していました。イギリスが現在の港の見える丘公園と、岩崎博物館がある一帯に、フランスは現在の堀川をはさんで人形の家の向かい側に広がる傾斜地一帯に兵舎を構えました。軍隊は自国民の生命と財産を守るため12年間駐屯した後、撤退しますが、フランス軍がいた跡地に長くフランス領事館が置かれたこともあり、「フランス山」と言う名がつけられました。またイギリス軍がいた一帯は「トワンテ山」と呼ばれました。イギリス軍には、その当時陸軍第20連隊が駐屯していましたが、その英語音(トゥエンティー)から名がついたものと言われています。

山手80番館跡が元町公園内にあるのはなぜ?

明治の初め頃、フランス人ジェラールが山手居留地の77,78,79,80,81,91,200番の土地を借り、湧水を船に売ったり、西洋瓦と煉瓦を焼く工場を建設したりしました。1927年(昭和2年)、遺産相続人からその土地の権利を買った横浜市がこれをまとめて77番にした結果、77番は現在元町公園が含まれる広い一帯になり、それ以外は欠番となりました。しかも地番はそのままで元町1丁目に編入されました。このため山手80番館跡が元町1丁目77番地の元町公園内にあるのです。


山手と外人墓地
山手の外人墓地は、横浜の観光名所にもなっていて大変有名です。正門を入るとすぐに、この墓地の資料館「横浜外人墓地資料館」があります。開港後居留地の人口の増加とともに、この墓地は拡張されていきます。この中には様々な技術や知識を提供し、日本の近代化に多大な貢献をした人々や、攘夷の嵐が吹き荒れた幕末の日本で犠牲になった人も眠っています。また、根岸には「中華義荘」と呼ばれる中国人専用墓地があり、この墓地内にある「地蔵王廟」は、レンガ造りの建物で一見の価値があります。
山手外人墓地埋葬者一号は誰?
1854年(安政元年)日米和親条約締結のために来航したペリー艦隊の「ミシシッピ号」の二等水兵ロバート・ウィリアムが死亡し、その埋葬が始まりでした。
ミシシッピ号
蒸気外輪船 1840年建造 1692屯 全長229フィート(約70m)

アメリカでベストセラーの「ペリー提督日本遠征記」
ペリーの要請でホークスが編集した日本遠征記の公式記録が1856年アメリカで出版され、当時のベストセラーとなった。ペリーをはじめ多くの士官の手による航海日誌や覚書等に基づき、日本遠征の経過をまとめたもので、ハイネの絵が挿絵として掲載されていました。
生麦事件犠牲者「リチャードソンの墓」

外人墓地に眠るリチャードソン。

居留地文化
外国人の商店街「元町」
中華街と中国人