居留地文化

開港後居留地の建設も拡大し、居留外国人も増大していきますが、文久年間の攘夷運動の高まりとともに、生麦事件・東禅寺事件などの外国人襲撃事件や長州藩の外国船砲撃が起こり、居留地襲撃の噂も高まりました。このような事態を背景に1863年(文久3年)にイギリス・フランス両国軍の駐屯が始まり、居留民も自ら義勇隊を編成し、自治意識も高まって行きました。

また、下水道の整備、塵芥汚物の処理、屠牛場の居留地外への移転の要求や、乗馬遊歩道路・競馬場などの運動娯楽の設置を、外国人達は幕府に要求して行きます。この様に居留地整備の機運と、自衛・自治体制の強化を背景として居留地文化が華開くことになります。

昔の西洋人達は、現在よりも教養や娯楽を大切にしていました。教養・娯楽の中心として、ゲイエティ・シアター(通称ゲーテ座、1870年オープン)という劇場がありました。ここではプロだけでなく、アマチュアの劇団や管弦楽団も公演をしていました。

スポーツに関しては、1866年(慶応2年)には根岸に競馬場ができ、1880年に結成された日本レース・クラブが管理するようになりますが、日本人も参加できたようです。1884年までには陸上と球技の団体が統合され、横浜クリケット&アスレティック・クラブ(YCAC)ができました。ボート競技の横浜アマチュア・ローウィング・クラブ、女性中心のレディズ・ローン・テニス・クラブ(LLTC)もありました。これらの団体は日本人との対抗戦を行い、日本人の間にこれらのスポーツが広まるきっかけになりました。


居留地文化の遺産
山手に移転したゲーテ座の跡地に現在は岩崎博物館が、競馬場の跡地には根岸森林公園と馬の博物館があります。YCACは横浜カントリー&アスレティック・クラブと名を変えて、現在は矢口台にグランドがあります。LLTCも横浜インターナショナル・テニス・コミュニティと名を変え、今も山手公園にコートがあり、横浜山手・テニス発祥記念館が作られています。

内地旅行免状と湯治免状
通商条約では、開港場から10里四方を遊歩区域と決め、その範囲内であれば外国人も自由に移動することができました。その範囲は、現在の神奈川県の大部分と東京都の一部を含む大変広い地域でした。その地域外については、学術的調査や病気療養等に限られていましたが、パスポート(内地旅行免状)を取得すれば旅行することができました。その後、条件が多少緩和され、箱根や熱海などの湯治場に行く場合には、手続きが簡単な湯治免状が交付されていました。

本国と同じ生活がしたい西洋人が日本に広めたもの
日本的文化になじむことなく、自国と同じ生活をしたいと外国人は考えたのです。そのためには養豚場、牧場、農園などを開いたり、医者、理容師、洋裁業者、パン職人、精肉業者、など、さまざまな職業の人達が居留地で店を開きました。こうしたことで横浜から全国に西洋の生活文化が広まることになったのです。それには次のようなものがあります。

★牛乳、パン、西洋野菜、肉食、アイスクリーム、コーヒー、ビール、写真、洋服、理容、ピアノ、石鹸、マッチ、時計、馬車、自転車、競馬、ボート・レース、ヨット・レース、陸上競技、射撃、スケート、野球、テニス

山手のビール工場「ジャパン・ヨコハマ・ブリュワリー」
横浜でのビール製造の始まりは、1869年(明治2年)山手居留地46番のジャパン・ヨコハマ・ブリュワリーですが、1870年頃にはノルウェー人コープランドが山手天沼にスプリング・バァレー・ブリュワリーを建設しました。この工場は1884年まで続き、翌年その跡地にタルボットらによってジャパン・ブリュワリーが建設されました。同社で1888年以降使用されたキリンラベルは、1907年会社が日本人経営の麒麟麦酒となった後も使用され続けています。

根岸の牧場「クリフ・ハウス」
乳牛の飼育は、1866年(慶応2年)にリズレーがアメリカから6頭の牝牛とその子牛をつれてきて牧場を開いたのが始まりでした。その後外交問題になったクリフ・ハウス牧場は、日本人の名義を借り居留地外の根岸(現在の根岸旭台)でヘルム兄弟が経営を始めため1879年(明治12年)に外交問題にまでなったのです。しかし、政府は牛乳は外国人の生活に欠かせないとして、特別に許可を出しました。

港の丘「山手」
外国人の商店街「元町」

中華街と中国人