外国人の商店街「元町」

開港前、横浜村は戸数百戸ほどの半農半漁の寒村でした。開港が決まり開港場が建設されることになると、1860年(万延元年)幕府は住民の移住を命じました。その移転先は山手の山すそでした。これが元町のはじまりです。

まもなく、堀川が掘られ、村の住民は山すその細長い土地での生活を余儀なくされ、また農地や海での暮らしの場を失ったのです。しかし、元町は山下(関内)と山手を結ぶ土地でもありました。山下(関内)居留地の整備と山手へのイギリス・フランス両軍の駐屯、また山手居留地の拡大など、外国人の生活物資への需要が拡大していく中で、旧横浜村の人々は、幕府から支給された作徳料という補償金を元手に新しい職業を営むようになりました。

山下(関内)居留地が外国商館が建ち並ぶ商業地であったのに対して、山手居留地は居住地として、外国人の住宅、病院、学校、教会、劇場、公園、墓地などが設けられ、いわゆる居留地文化の華を咲かせました。そうした外国人の生活を支えるため、様々な物資・サービスを提供する街として、元町は発展していくことになります。

増徳院や元町百段のあった通りは、パン、西洋菓子、洋服仕立て、クリーニング、絵はがき店、写真館などで賑わいました。また元町は職人の街としての一面もあり、その代表が横浜家具といわれる西洋家具です。

居留外国人と日本人の会話はどの様に?
開港後、居留外国人とのコミュニケーションをはかるため、多くの単語集や会話集が出されましたが、多くは一枚刷りや簡易な冊子体で、日本語に対応する単語の発音、文字綴りが記載されたものでした。発音は、日本人が耳にした音をそのまま置き換えたもので、そこから開港期独特の「横浜言葉」が生まれました。

横浜言葉
あさ モウネン Morning   おはよう グルモウネン Good Morning   ありがとう タンキョウ Thank you   日曜・休日 ドンダク Zondag (土曜 半ドン)   だんな マストル Master   領事 コン四郎 Counsul   売買い破談・悪い ペケ   破れる・捨てる サランパン   両替 チンチン Change   酒に酔う ドロンケン Drunken

売込商と引取商
1859年(安政6年)7月に貿易は開始されましたが、外国人商人も日本人商人も商売は居留地内で行う必要がありました。また横浜に進出した日本人商人のうち、輸出商を売込商と言い、輸入商を引取商と言いました。ところで開港直後の日本は、強大な軍事力を持つ西欧諸国に対抗しながら、独立をまっとうできる権力と経済力を作り出す必要に迫られていました。そのため国際市場で豊富な経験を持つ外国人商人が、国内市場へ進出することをくい止めることが不可欠でしたが、居留地がその役割を果たしていました。幕末から明治初年の横浜は外国との友好の場と言われていますが、実は外国人商人と日本人商人との間の激しい経済戦争の場でもあったのです。

港の丘「山手」
居留地文化
中華街と中国人