中華街と中国人

幕末に横浜の港が開かれた頃、中華街の辺りは横浜新田と呼ばれていました。現在、中華街の道が本町通りに対して斜めになっているのは、横浜新田のあぜ道のなごりと言われています。

港町横浜には世界各国の人々が集まりました。広東、香港、上海などからも大勢の人達がやって来たのです。当時、西洋人は日本語が分からず、日本人も西洋人の言葉や商習慣についての知識はほとんどありませんでした。一方、広東、香港、上海の西洋商館で働いていた中国人は、西洋の言葉がわかり、また日本人とは漢字で筆談ができました。そのため、多くの西洋商人が横浜進出に際して、中国人を伴って来たのです。中国人は西洋人と日本人の間に立ち、重要な役割を果たしました。

また中国商人は、独立して貿易業を営み、北海道のアワビや昆布などの海産物を中華料理の食材として香港や上海に輸出したり、台湾から砂糖を輸入したりしました。

貿易の面ばかりではなく、新しく開かれた港町で自らの技術を生かそうと、西洋建築、ペンキ塗装、洋裁、活版印刷、西洋料理など、様々な新しい技術を持った中国人も横浜を訪れました。彼らはそうした技術を日本人に伝える役目も果たしました。

こうして横浜にやって来た中国人は、同郷の人々で集まり住んで中華街をつくり、関帝廟や学校、また中国人墓地を開き、現在につらなる横浜華僑社会を築いていったのです。

中国人商人と日本人商人の対決
日本人商人が居留地で西洋人商人と商売をする場合、直接的なやりとりする相手は中国人である場合が多く、そのため中国人との間で商習慣をめぐる争いが続いていて、対中国人不公正商習慣是正運動なども起こっていました。問題となったことには、大きく分けて「
見本料」「看貫料・南京口銭」「不公正秤」の三つがあり、公正な取引を妨げていたようです。

見本料

たとえば海産物の場合は取引千斤について五斤位を見本料として納めるというもので、実質的には歩合の手数料というべきものでした。

看貫料・南京口銭

外国商館で商品の重さを計る際に、計量係(看貫方)の中国人に支払う手数料のことでした。
不公正秤

外国人商館の秤には不正なものが多く使用されていました。

日本の華僑社会が世界の華僑社会にくらべ小規模な理由

今から百年位前の日本では、居留地内の行動に限られていた外国人に、日本内地を開放するか否か大問題になりました。いわゆる「
内地雑居」のことです。特に中国人の内地雑居に対しては、社会風俗あるいは衛生面などの観点から、反対意見がありました。つまりアヘン吸引などの風俗・習慣が日本国内に蔓延して弊害をもたらすと考えた人々がいました。また内地雑居を許可すれば、大勢の中国人が来日し低廉な労働力が流入することになり、日本人労働者の働く場所を奪うのではないかという危惧も広がりました。しかし、隣国の中国人に対してのみ内地開放を制限するのは、外交上の信義に反するとして、西洋人同様の内地雑居に賛成する意見もありました。

しかし、1899年(明治32年)7月10日実質的に中国人の内地雑居を制限する内閣法制局の立案が可決されてしまいました。これにより中国人の旧居留地・雑居地以外での居住・経済活動に厳しい制限を課すことになりました。

現在の日本の華僑社会が、東南アジアや北米の華僑社会にくらべると、人口がかなり小規模となった原因の一つとして、この百年前の規制をあげることができます。

港の丘「山手」
居留地文化
外国人の商店街「元町」