山手の歴史あれこれ


開港前の横浜村は、半農半漁の戸数百戸ほどの小さな村でした。その小さな横浜村に、アメリカ東インド艦隊司令長官ぺりーが盛装した約五百名の士官や水兵達を従え、沖の艦船よりランチに分乗し、うらうらと晴れた早春の浜辺に降り立ったのが1854年(嘉永7年)3月8日の事でした。

その目的は、幕府との開国のための条件交渉でした。そして、日米和親条約が3月31日に調印されました。その後、下田に赴任したアメリカ総領事ハリスは、幕府に対して、開港等を要求する通商条約交渉を開始しました。交渉は難航しましたが、神奈川、長崎、函館などを開港する日米修好通商条約が1858年(安政5年)に締結され、続いてオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の通商条約が結ばれたのです。

当初幕府は、神奈川の横浜村を開港場として主張しましたが、諸外国は、すでに領事館を現在のJR東神奈川駅周辺の寺などに置いていましたので、諸外国は強く反発をしたようです。

しかし、最後に横浜村が開港場として決定した理由は、良港で貿易品の荷揚げや積荷がしやすい点、それらを集積する用地が広い横浜村の方を、諸外国や日本の貿易商が好んだため、次々に外国の商館が建ちだし、また、日本人商人も各地から集まりだしました。この様な既成事実に後押しされ、オランダが領事館を横浜村へ移転したのをきっかけに、事実上横浜が開港場となりました。

そして、この開港場で商売をする外国人のために、居留地を山手や山下(関内)に設けたのです。これが山手の歴史の始まりです。

*1854年(嘉永7年)3月8日、ペリーは500名の水兵とともに横浜に上陸。
*絵右側の木は現在も横浜開港資料館にある「玉楠の木


港の丘「山手」
居留地文化
外国人の商店街「元町」
中華街と中国人


本文掲載に当たっては横浜開港資料館・横浜歴史博物館
の資料を一部参考にさせていただきました。